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◆ 歴史教科書もグローバル対応に [日本あれこれ]

次期学習指導要領
鎖国表記消える 
新たにムスリム商人
歴史教育もグローバル対応

2017.02.14
(www.sankei.com/life/news/170214/lif1702140034-n1.html )


文部科学省が 14日、公表した
小中学校次期学習指導要領改定案

社会科では、
教科書の歴史用語が学術研究を踏まえて変更され、
江戸時代の 鎖国の表記が消える

中学の歴史的分野では、グローバル化に対応し、
大航海時代に結び付いた ムスリム商人の役割などが
盛り込まれた




江戸幕府対外政策を指す用語として使われてきた
鎖国 は、江戸後期にオランダ語の訳語として登場した。

だが、実際は
長崎や対馬などを窓口として交易
が行われており、
改定案ではそうした経緯も学ぶ。



聖徳太子
歴史学で一般的な 厩戸王うまやどのおう)」 との
併記となる。

「聖徳太子」は没後使われた呼称だが、
伝記などで触れる機会が多く、
人物に親しむ小学校で 「聖徳太子 (厩戸王)」、
史実を学ぶ中学では 「厩戸王 (聖徳太子)」 とする。



ムスリム商人の役割 を学ぶのは、
世界の結びつきに気づかせるのが狙いだ。

かつて世界経済の中心だったアジアの海域では、
ムスリム商人らにより絹や陶磁器などの交易が行われた。

大航海時代には
アジアの交易にヨーロッパ人も加わり、
戦国時代の日本に鉄砲やキリスト教を伝える。



中学ではこれまで、
日本に直接関わる事象を中心に
世界史を扱っていた。

しかし、高校で
世界史と日本史を融合させた
歴史総合新設されるのを受け、
間接的に影響した事象の学習を増やす。



東京大副学長の羽田正教授は
「世界を一体として捉えることで、
世界史を自分たちの歴史と考えることができる。
一つの地球に生きる人々と
同じテーブルで話ができるようになるといい」
と話している。





ということで、百科事典の 『世界史』 の
中綴じ糸を切ってバラバラにして、
地域別になっているのを年代順に合わせた私としては
とても良いことだと思いました。


が、時期的にアメリカでムスリムが大問題になっているし、
それに便乗して、かねてからの黒人問題も盛り上がっていますから、
ここはひとつ、絹だの毛織物だの陶器だのばっかりじゃなく、
是非とも、「奴隷貿易」 も加えて頂きたいものです。





アラブ人の奴隷貿易
(Wikipedia )


中世におけるアフリカの主要奴隷貿易路


貿易の範囲


650年 (飛鳥時代・大化) から
1900年 (明治33年/北京の55日の年だわ!) までの間に、
1000万から 1800万人のアフリカ人が
アラブ人奴隷商人によって奴隷にされ、
紅海やインド洋、サハラ砂漠を越えて運ばれたと
歴史家は推測する。


アラブ人が歴史書で使う用語は、
「人種的」 用語よりも文化的用語をしばしば表している。


ティップー・ティプのような 「アラブ 」奴隷商人の多くは、
奴隷にされ売られる 「アフリカ人」 と区別がつかない。


アラブ人の奴隷貿易の性質により、
厳密な実数を知ることは不可能である。


なお、およそ 1100万から 1500万人のアフリカ人の捕虜が
アメリカに連行された。


多くは捕虜になる過程や船の上やアフリカの牢獄で死亡した。


同様に、アラブ人はヨーロッパ人も奴隷にした


Robert Davis によれば、
16世紀から 19世紀の間に
100万人から 125万人のヨーロッパ人が、
オスマン帝国配下のバルバリア海賊によって捕らえられ、
奴隷として売られた。


こうした奴隷は、主にイタリアやスペイン、ポルトガルといった
地中海沿岸諸国の村々で捕らえられた者だったが、
フランスやイングランド、オランダ、アイルランド、
更にはアイスランドといった
北ヨーロッパの遠隔地出身の者も存在した。


こうした攻撃の威力は国土を荒廃させた。


フランスやイングランド及びスペインは
それぞれ数千の船隻を喪失し、
スペインとイタリアの長い海岸線は
ほとんどが住民によって完全に放棄された。


19世紀まで海賊の襲撃によって居住は阻害された。


周期的なアラブ人の襲撃遠征は、
イスラム教イベリアからキリスト教のイベリア王国を破壊し、
戦利品や奴隷を持ち帰るため送られた。


例えば 1189年 (鎌倉時代) のリスボンへの襲撃で、
ムワッヒド朝カリフのヤアクーブ・マンスールは
3000人の女性と子供を捕虜とし、
彼のコルドバ知事は 1191年のシルヴェスへの次の攻撃で
3000人のキリスト教徒奴隷を獲得した。


オスマン帝国のヨーロッパでの戦争や
タタールの襲撃も
多くのヨーロッパ人キリスト教徒奴隷をイスラーム世界へもたらした。


「オリエント」 または 「アラブ人」 の奴隷貿易は
しばしばイスラーム教の奴隷貿易と呼ばれる。


しかし、宗教的義務は奴隷制の推進力ではなかったと
世界史を専門とするパトリック・マニング教授は主張する。


しかし、もし非イスラム教徒の住民が
イスラーム教の受け入れ
またはジズヤ (保護/従属税) の支払いを拒めば、
その住民はイスラーム教徒の 「ウンマ」 (国家) と戦争状態にある
と見做され、非イスラーム教徒の住人から奴隷を取ることは
イスラーム法的に合法となった。


「イスラームの貿易」 または 「イスラーム世界」 という用語の用法は、
アフリカをイスラームの外側として扱ったり、
イスラーム世界の一部を無視しているとして、
幾人かのイスラーム教徒によって論争となっていた。


アフリカのイスラーム教宣教者は頻繁に、
潜在的な奴隷の蓄積を減らす可能性があるとして、
改宗に対する警告的な態度を表した。


西欧からの視点では、
この主題は 「東方奴隷貿易」 と混ざり合い、
それは中世においては二つの主要な交易路に成り立っていた。

◍ マグリブとマシュリクの砂漠を横断する陸路 (サハラ横断交易路)

◍ 紅海とインド洋を通過するアフリカ東部への海路 (東方交易路)


アラブ人の奴隷交易は
イスラーム教以前に始まり、
1000年以上も続いた。


アラブ人商人は
現在のケニアやモザンビーク、タンザニア、南スーダン、
東アフリカのエリトリアや、エチオピア等から
アフリカ人を、
インド洋を越えて現在のイラクやイランやクウェートやソマリアやトルコなど
中東の諸地域 、南アジア (主にパキスタンとインド) に運んだ。


新世界への大西洋奴隷貿易と違い、
アラブ人はアフリカ人奴隷をイスラーム教徒世界へと供給し、
最盛期にその範囲は
大西洋 (モロッコやスペイン) から
インド洋や東シナ海への3 大陸に及んだ。



サハラ砂漠を越えアフリカ奴隷を運ぶアラブ人の奴隷貿易キャラバンの
19世紀の彫版印刷



奴隷貿易の資料と歴史文献

最近の論点


奴隷貿易の歴史は
歴史家の間で数多くの論争を生じさせてきた。


まず、専門家たちは
故郷から連れ去られたアフリカ人の数を
確定できていないことがあげられる。


中世アフリカには人口調査システムがなく、
信頼出来る統計が乏しいため、これを解決することが難しい。


16世紀から 18世紀にかけての大西洋貿易の古文書は、
資料として有用であると考えられているが、
こうした記録書はしばしば偽りが見受けられる。


歴史家は時に推測を織り交ぜて記述を行うため、
不正確な語り口の文書を
注意深く取り扱って使用せざるを得ない。


Luiz Felipe de Alencastro  は、
8 世紀 (奈良時代~平安時代) から 19世紀 (明治時代) にかけて
800万人の奴隷がアフリカから
東方ルートやサハラ横断ルートを使って連れ去られたと主張する。


Olivier Pétré-Grenouilleau  は更に推し進めて、
Ralph Austen の業績に基づき
(同じ地域の同じ時代に) 1700万人のアフリカ人が奴隷にされた
と主張する。


en: Paul Bairoch  は、2500万人のアフリカ人が
アラブ人の奴隷貿易に晒され、
その一方で 1100万人のアフリカ人が
大西洋奴隷貿易によってアメリカ大陸に到達したと示唆する。


Ronald Segal は 1150万 ~ 1400万人が
アラブ人の奴隷貿易によって奴隷にされたと推算する。


アラブ人の奴隷貿易へのもう一つの障害は、
現存資料が限られていることである。


非アフリカ文化からの、
アラビア語で教養ある男性の手による文書は現存するが、
不完全なものでしかなく、
しばしば現象に対し親切ぶった態度を取っている。


数年にわたり、
アフリカへの歴史学的調査に
大きな努力が払われてきた。


新たな方法と観点のお陰で、歴史家は
考古学や貨幣学や人類学や言語学や人口統計学の
成果を活用して、
文字記録の不備を補完することができるようになった。


東アフリカのアラブ人の奴隷貿易は、
最も古い奴隷貿易の一つであり
ヨーロッパ人の大西洋奴隷貿易より 700年前に遡る


男性奴隷は
主に召使いや兵士や労働者として所有者に雇われ、
アフリカ出身を含む女性奴隷は、
召使いや妾としてアラブ人商人や東方商人によって、
遠く中東の国々や王国へと売られた。


アラブ人やアフリカ人や東方の商人は、
奴隷の捕獲や、
サハラ砂漠を北に縦断するルートや
インド洋一帯の中東や
ペルシアやソマリアやインド亜大陸へのルートでの
奴隷の運送に関わった。



奴隷市場」 (1884年ジャン=レオン・ジェローム作


650年から20世紀まで


650年頃から1960年代まで、
アラブ人の奴隷貿易は様々な形で続いた。


アラビア半島やイエメンなどの奴隷を所有する貴族の
歴史的記述や言及は、
1920年代 (大正時代) 初期まで頻繁に見受けられる。


1953年 (昭和 28年) に、カタールの首長たちは
エリザベス 2 世の戴冠式に従者として奴隷を連れて出席し、
その 5 年後にも繰り返した。


1950年代の最近でも、サウジアラビアの奴隷の人口は 45万人、
つまり人口の約 20% と推定された。


約 20万人のスーダン人児童と女性が
第二次スーダン内戦で奴隷にされたと推定される。


モーリタニアの奴隷制は、
1905年と 1981年に通過した法律によって法的に廃止され、
2007年 8月にやっと犯罪行為となった。


現在、60万人のモーリタニア人
つまりモーリタニアの人口の 20% が、
貧困のため名目上は債務労働だが、
「奴隷」 と見做しうる状態にあると推察される。


インド洋や紅海、地中海におけるアラブ人の奴隷貿易は、
ヨーロッパ人のアフリカ大陸における植民地化の歴史よりも、
はるかに古い。


奴隷貿易中に
中東に連れて来られたアフリカ人奴隷の子孫が現存し、
自身のアフリカの出自を自覚している。


しかし、アラブ人主人によって男性は去勢されたため、数は大きく減った。



ダウ船はアフリカ人奴隷をインドに運ぶため使われた





奴隷解放宣言1862年江戸時代末期
(Wikipedia )


「連邦 (北軍) に反抗的な南軍兵士の保持する奴隷を解放する」
というもので、リンカーンが
「奴隷制度はいけないことだ」
と考えて解放宣言をしたワケではなく、
南軍の士気を弱める戦術のひとつだったワケではありますが、
それでもこれが発端となって、
全面的な奴隷解放となって行ったのです。


つまりは、大々的にはアラブ商人によって始められた
奴隷貿易の 「奴隷」 に終止符を打ったのは、
アメリカ人 (西洋人) だったのです。


この歴史を見れば、今現在、合衆国で叫ばれている
「黒人問題」 は、とんだお門違いではないかとも、思う。


昔は世界各地でごく当たり前のこととして
普通に行われていた慣習が
今では法に触れる犯罪ともなる事柄はたくさんある。


その、「昔はごく普通に行われていた」 ことを
今現在の法律の場にさらけ出して攻撃するというのは
どんなものなのでしょう。


それはいけないことだと反省したからこそ
今現在は禁止事項となっている、という前提を無視している。


日本にもありますね、アイヌ問題だとか琉球問題だとか。

そして隣りの日韓併合 (併合であって、植民地ではない) 問題とか。


と、とんだ 「ムスリム商人」 のお話になってしまいました (^^;



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